ダグラスノース「制度原論」第2部–第7章と第8章

その先にあるもの(p125)

第2部で取り上げられる諸問題の提示
  1. 信念体系の進化による社会構造の帰結とそれぞれの時間を通した変遷の理解
  2. 生産的または非生産的な経済制度と政治制度を創出する信念体系を説明するために、その起源を理解する
  3. 相互依存的な経済・政治・社会の世界でのインセンティブ構造とそれらの相互作用の様子に対する理解
現代新古典派経済学社が無視する躓きの石
  1. 市場からの利益を増加させるような制度変化には、人間の遺伝的遺産に反するような再考が必要
  2. 知識の専門化を低い取引費用で統合させるためには新奇な制度的・組織的結合が必要
  3. プレーヤーが限界的領域に向けて競争するとうなインセンティブ構造の構築によってスミスの有益な結果が実現する。
  4. 良く機能する市場に対して、政府に対してある程度、行動を制約する政治制度が必要である。

第7章,進化する人為的環境(p132)
自然環境の制圧の概観と人為的環境の特徴について
 
1,自然環境の制圧(p133)
共通の分母を持ち異なる言語と組織という形態が成り立ち農業の採用➡︎その後の複雑性を増し、多様な文明が開化する➡︎これらの文明の発展の差異は各文明に属す人間にとって適合的な自然環境であったか否かが重要であった➡︎近代に入ると科学的知識の登場でそれらは重要な意味を持たなくなった
人間を取り巻く条件の劇的な変化(p134)
近代経済成長を包括的に概観するためには制度的要因(社会・政治的要因)と西洋以外の文明の阻まれた発展などを等しく観察する必要がある
人口増大(p135)
  1. 表7,1:GDPの格差の拡大
  2. 図7,1:18C初頭の人口増大
  3. 図7,2:寿命の増加
  4. 図7,3:乳児死亡率の減少
  5. 図7,5と図7,4:大都市の増加と郊外から都市への人口移動(※第1次産業が後退することを意味しない)
取引費用の増大(p139)
現代経済の劇的な成長要因は、取引費用の増大を補って余りある生産費用の削減である。
図7,6:取引費用の増大
国際的な相互依存性と格差(p140)
図7,7:国内においても経済成長は見られるが、現代世界では輸出額の増加がGNPの10%を占めるようになってきた。
図7,8:人間は自然環境を制圧し不確実生の低い現代世界を創出することをできたが、人類を破壊する武器を創り出す世界を生み出してしまった。
図7,9:信念により形成される制度的枠組みの相違により先進国と発展途上国GDPの差が拡大した。
▶︎初期は自然環境の適合具合によって発展のパターンが分化してきたが、近代に入ると経済成長への影響は極めて減少したために、経済成長は「人口動態」,「知識ストック」,「制度」の相互作用の成果によって大きく変わってくる。
人口の質(p142)
自然環境の制圧は人口動態(人口の質)に大きな影響を与えた。フォーゲルは特に19世紀に人口動態を飛躍的に改善することができた。この中で、フォーゲルは人口の質に含まれる死亡率の低下の主たる要因は、医療の発達ではなく、伝染病の克服であると認識した。人類の質を示す指数の一つとしてHDIがあり、アメリカでは徐々に増加してきたことがわかる(図7,10)。また、フォーゲルは新知識により慢性疾患の発生率が低くなったとし、ただ長生きになったのではなく、より健康的に生きているとする。この過程の背景で制度は、公的保険制度という形で伝染病の制御のための個人による公的保険の受容が果たされたとする。
知識のストックと専門化(p145)
自然の制圧が進むにつれて、社会も複雑に変化し、技術進歩も速まっている。モキアは潜在的な知識や技術を制度や組織が開化させるという点で、制度的枠組みを重要視している。知識の専門化を示す指標として、図7,12があり、激増していることがわかる。これからわかる専門的な知識を持つ人々を低い取引費用で統合するには、新しい制度と組織(補完的な)に依存しなければならない。
知識の扱いについて(p147)
知識ストックの成長の方向に信念がどう与えてきたか?その前に、知識とは何なのか。知識=信念なのか。信念が問題解決の本質からずれていると、知識が上手に使用されずに、問題を解決できない。
 
2、複雑化する人為的環境–匿名的交換の拡大(p148)
自然環境の不確実性に対応する社会の特徴は、規範の共有であった。そして、自然環境に対処するための制度や信念と人為的環境に対処するためにそれを対比することで、変化の過程を理解出来る。前者は個人的紐帯による非匿名的股間のための制度構造に依拠し、後者はルールと実行化の公式構造に依拠する。➡︎異なる信念集合は異なる、経済・政治・社会の進化する構造を形成した。
経済変化の3つの側面(p150)
経済変化が持つ3つの側面
  1. 信念体系の起源
  2. 社会変化に対して信念はどう適応するのか、またどう制度を備えるか
  3. 6つの要因の相互作用が寄与し近代経済成長が成し得た。これは、どんな判断によってもたらされたのか。
 
第8章,秩序と無秩序の原因
秩序や無秩序を生み出す信念が、どのような条件の下で起動するのかを探求
1、秩序とは何か(p154)
権威主義的な政治秩序の成立:為政者が定めたルールに従う方が得だと考えるとき
総意による政治秩序の成立:人々が尊重するルールに従う方が得だと考えるとき➡︎共有された心的モデルは合法と認められた制度となり、逸脱は違法となり逸脱者は罰則を受ける。
理念のまとめ4点ありp156にある:権威主義にも多様な形態があり比較を通じ重要なことがある。
  1. 権威主義を受け入れるのは無秩序よりもそれが良いからである。
  2. 権威主義的な支配と総意による支配においては威圧は必要なのである。前者は非公式な制約があり、後者は公式の制約がある
2、無秩序が生じる理由(p158)
  1. 大規模集団による昔からのメカニズムの解体が行なわれるが、代替できる適切なメカニズムがない
  2. 革命を起こす方がリスクが小さいと諸個人や集団に考えさせるようなものである➡(プロセスp159)
3、秩序の維持–制度配置の柔軟性
秩序の維持の鍵は、匿名的交換制度の確立である。アメリカは独立革命南北戦争の後に、すみやかにこの秩序再建を見せた。経済の大きな変動において生じる諸問題にいかに上手に対応できるかは、適応効率性にかかっている。
経済変化に直面する政治秩序を維持に関する4つの命題
  1. 市民に権利を付与し、行政官の行動に制約を課し、その行動の範囲は社会規範の発展の度合いに規定させる。
  2. 憲法において政治に対して制約を課す
  3. 財産権と人格権の明確な定義
  4. 政府の信ぴょう性のあるコミットメントの提供
これらは制度配置により公式ルールとして定められる。この命題を社会規範として強く抱かれるには数世代の時間が必要で、無秩序がはびこる社会に秩序をうち立てるのは難しい。だから、ときには権威主義的な秩序を選ぶ。
4、アメリカの政治史・社会史・経済史(p161)
アメリカ独立戦争(1775-1783)〜南北戦争(1861-1865)の間で分析したことを描き出す
大英帝国の連邦制度(p162)
フランスの脅威が高まる中、イギリスと植民地アメリカは互いに必要とした。厳格な線引きがあるシステム上、双方が監視しやすい状況がつくられていた。帝国制度は安定していたが、揺らぎ始める。
  1. 英仏植民地戦争による財政圧迫が起き、植民地(アメリカ)に資金の融通を求める
  2. 植民地アメリカはイギリスの帝国の1部となり、合理的な政策を進める上では、1部の地域の犠牲も求められた。
イギリスとの対立(p163)
  1. アメリカ急進派が、イギリスの租税と通じての介入を自由の死と解釈する。
  2. 急進派は宣伝をするが、革命を起こすよりも、現行の秩序を維持する方が得と考えている(信念が変わらない)
  3. 1766年宿舎提供,1773年茶法,により、急進派の意見が正しいとされる(新しい信念へ移行)
▶︎革命の遂行
革命後の秩序の再興
植民地時代の遺産:政治的・経済的ゲームのルールの集合が、独立後へと引き継がれた。
▶︎合衆国憲法による中央政府の行為への制約と市民と州の重要性という共有された信念などが、分権的競争市場を生み出し、経済発展へ
適応効率的な政治構造(p166)
南北戦争後の回復に寄与した適応効率的な制度構造
  1. 経路依存性
  2. 要素賦存上の有利さ
  3. 信念体系の強化につながる出来事の発生
  4. 幸運
▶︎イギリスの遺産により匿名的交換を支える制度の発展に有利な環境が生まれた。
5、ラテン・アメリカのストーリー(p167)
スペイン統治後に独立した各地は米国式憲法を採用するが、イギリスの遺産がないので、それにより帰結は異なり、
独立国家は瓦解し、闘争が起きた。権威主義的レジームのもとでの非匿名的交換が成立。
匿名的交換に基づく共有された信念(p168)
新たな共和制の制度と古い秩序の政治基盤との対立により、政治的な根深い対立が生じた。自治というものが存在しないなかでは、共有された信念体系が何ひとつなく、非匿名的交換が存在した。この存在は匿名的交換を濁退化させる。また、共有された信念体系がないので、国家に制限を課すこともできなかった。これにより、新興国家の政治的不安定が生まれた。
メキシコ:政府–資産家の間に第3者が入り履行をコミットさせる。そして、財産は1部の資産家のみへの選択的保護であった
北米とラテン・アメリカの違い(p170)
アメリカとラテンアメリカの国々の成果の違いは基本的な信念体系の違いであった。アメリカには、イギリスの植民地時代から引き継いだ信念体系があったが、ラテンアメリカには、スペイン王国から引き継いだのは不安定性と混乱で、さらに奴隷制やエンコミンダ制なども継承された。その結果、対照的な制度発展となり、不断な社会変化に対しての適応効率性が異なるので、秩序の回復も異なる。
 
 
絶対所得仮説
Absolute Income Hypothesis
ケインズの消費関数に関する仮説で,所得の絶対水準が増加するにつれて所得に対する支出の割合が小さくなるというもの。つまり,所得に占める貯蓄の割合がふえることになる。たとえば,実質消費支出を C ,実質所得を Y とすると Y=aC+b ( a,b は正の係数) のような対応関係である。 

ダグラス・C・ノース「制度原論」(2016,東洋経済)

第3章 信念体系、文化、認知科学

合理性の仮定には問題がある

合理性の仮定を置く完全競争<競争モデル>の下では、意思決定の問題は複雑ではない
→数量(生産量)を選択する(価格に影響はない)にあたってのフィードバックが素早く得られるから
But→数量が価格の関数であるとき、意思決定の複雑性は増大する→認知過程に入る必要が生じる
このとき、合理性の仮定をおくと、地形に対する理解の阻害となる。
→合理性の仮定で理解できることもあるが、不確実性が内包されている問題については、対応(心の関係に)できない。’

1、認知過程、信念形成と制度の相互作用(p37)

合理的選択の思考は個人の脳内のみでなされるのではなくて、その思考の過程においては、外部(つまり世界の社会的・制度的文脈)から影響を受けている。
→この合理的な選択は、限られた選択肢の中での、競争的選択であり、その結果、その選択は大きな機構の交換可能な歯車となる。(個々のメンバーの選択は大きな機構に影響しない?)
→この競争的選択と制度の相互作用を、我々は理解したい。

2、認知科学と人間学習(p39)

人間の学習過程:個人の学習の構造構築過程とは(1)初期の遺伝的構造→(2)個人の経験が影響→(3)これらはカテゴリ(人々の肉体的成長によって進化するところ)の上で、心的モデルを形成する。→その後のフィードバックが心的モデルに変化を加える(学習する=心的モデルの再定義)
「進化的環境における学習」:構成要素があるが、認知過程に関する争点は解決されていない→本書で争点を要点を簡単にまとめて書くために、コネクショニストのモデルを調べる

パターン・マッチング(p41)

後の議論:不確実性の世界では、思考は論理で発生するのではなく、パターンで発生する。もしも、生活にインパクトが与えられたならば、それを吸収し、わずかに対応するためにパターンを調整する。この経験を通じて得た(調整が幾度となく加えられた)パターンを我々が持ち、ある問題に遭遇した時、そのパターンに似ている限り、我々は理解や把握が上手である。(また、アイディアは我々の持つ規範の範囲内ならば、採用される)
→しかし、推論は下手である。
パターンマッチング:物事を一般化できる能力の過程
フェルドルマン:「0と1」の実験:人間はパターンがないところでも、世界を理解するために努力して、説明、理論、教義を持とうとする。
共通の文化的遺産:同じ制度と教育的構造を共有する社会において、心的モデルにより導かれた意思決定のぶつかりあいを削減する手段を提供し、また世代間をスムーズに移行させる役割を果たしている。
次の未解決な論争→心の遺伝的アーキテクチャは、認知の特別な特徴と認知過程の特徴の形成にどう関わってくるのか?

3、人間の心の適応可能性(p43)

<第1の論争>文化はどう形づくられる?
進化心理学的アプローチ:心→文化
伝統的なアプローチ:文化→心
我々の見解:進化した心理→文化を形づくる
グールド進化生物学者:環境の条件によって選択が作用されるのではなくて、そこにはルースが存在しており、偶然と養育能力が生存過程に大きく寄与する
実験経済学者(ホフマン):小規模集団においても、非協力的結果が望ましく、その際の余剰最大化を可能にするために報酬/罰則戦略が用いられる→心的進化と社会的適応の自然な産物
エピジェネシスの特徴は人間を取り巻く多様性の説明を試みてる社会学者にとっては、少しの進歩しかもたらさない
進化心理学者の貢献:心の根底にある推論構造を解明している→この推論構造による説明を理解することは、政治的経済的単位の時間を通じた成果特性の変化を理解する時に、重要である→しかし、遺伝的性向と文化的命令の関係はわからない。→研究のフロンティア

4、心の「作動メカニズム」と脳(p46)

コネクショニストのアプローチ
知識がどのように貯蔵され整理されるのか?
人工知能:知識がコンピュータの記憶装置のデータのように記憶に貯蔵され整理
コネクショニスト理論:脳の神経系の過程をシュミレートする→複雑なので、大規模なモデル→帰納的だ(経験してパターン化する)
→スモレンスキー:両立可能→心と知的システムが作用するメカニズムへと導く
認知過程:計算論的過程だから、知的システムの機能を説明するには計算論的枠組みが必要(計算主義と表象主義のリンクは直接的)
マリーン・ドナルド:シュミレートを通じて、脳と心を非記号的戦略でモデル化することは、知的な世界型を構築する上で、強力なものである

知識の一般可能性(p48)
コネクショニストモデル:一般化可能な知識を持つシステムとなることができる
問題:心的モデルの表象的再記述がどう作用するのか(個別なものを処理し、一般化し、アナロジーを使用する能力が修正される過程)
脳撮像の技術:謎が増えた

ハイエクの見解(p50)
信念:感覚によって解釈された、心の構造物
→理解できる範囲で、対象の性質が不正確であっても、われわれは分類する→新たな外部世界を学習するとき、蓄積された経験(統合システム?)の観点から解釈する→だから、異なる蓄積された経験を持つ個人が存在することは、解釈の違いをまねく。→こうして形成される物理的世界には、感覚による事象の分類が存在する(歪められた再生産が蔓延する世界)
→事象によっては裏付けられない期待を生じさせる(事象の認識が正しいかどうかはわからず、したがって、その事象に対して期待することもまた、裏付けのない期待である)
ハドウィン・ハッチンズ:文化、文脈、歴史→人間認知の根本的な側面→それらは個人の持つ認知の統合体であるが、うまく統合することができないという事実を説明することが必要で、
→課題は、「認知活動?のダイナミックな変化の過程において、個人の認知はそれの一部である」で、これを成し遂げると、文化や社会に人間認知が影響されるだけではなく、文化や社会は個人個人の認知が影響している過程であると示される。

マーリン・ドナルドの見解(p52)
文化の根本的な構成要素が言語から始まる。
主張:人間は他の生き物と違い、知識を蓄積できる
継起的諸段階:(1)感情の表出には限界があり→(1→2)身振り的段階で克服し→発話と口承を身につけ→神話的文化へ移行→読み書き:外的記号環境との共生が発展し、表象(直観的に心に思い浮かべられる外的対象像)的可能性が生じてきた(文化化の基礎)
理論的文化:記号システムを効果的に高度に使用し、また、蓄積されたそれらに組合せを行うことで、専門的な記号の集合が生成された結果、大多数の人々が使用する理論が発生する。すると、大多数の人々が使用しているために、理論が支配するという原則を共有することになる→理論的文化
科学的方法の発展:物理的環境と人為的環境に対する理解の転換→理論的文化:社会文化を、(心と外的構造の)計算論的システムを含むとみる??認知システムの過程において、外的構造の計算論的システムの影響を受けることは、認知システムの過程では内的な追加的過程とみなせる。そして、内的過程(計算論的システムを影響をうけた後の認知過程)と行為者たちのコミュニケーションは人間によって観察可能である。

人工物的構造の役割

(適応過程である)文化→社会制度の認識に対して有用
個人の信念が社会制度にどう相互に関係するのかがわかれば、社会制度と文化によって経済変化の説明がより上手になる
→本書第2部にて詳しく
文化的遺産→が人工物的構造(機械とか技術)→を提供し、それは選択をスキップすることができて、それが豊かであればあるほど、不確実性は大きく削減される。そして、その選択つまり認知活動において、その社会の文化(全体を考えた時)に対する人々の個人の認知(文化的文脈)が大きく寄与してればしてるほど(が豊かである=人工物的構造が認知システムによる選択に介在しているから不確実性が削減されると)、社会の存続が性向する可能性が高くなる。→すると、人工物的構造が豊かでない国と豊かな国では、そもそも選択に対して不確実性が伴うので、その両者の日常的な生活に潜む不確実性は異なってくる、人類はどう考えたって不確実性が大幅に削減された社会の方が良いので、豊かな人工物的構造を持つことは厳然として重要だよね
アントニオ・ダマシオ(認知の根底にある自己の神経生物学的基礎):意識が→人間の周りの条件を生み→色々と明らかになるので→良い→でも代償が高すぎる→これらが条件=ドラマである
→その後の文章の合意、、がわからなくて、今の生活環境が豊かすぎて、スーパー貧乏のときには感じることができる「生きれることのありがたさ(味噌汁のありがたさ)」を忘れてしまう。

第4章 意識と人間の志向性

ジョンサール:主観的状態がどうのように実現して、人生にどう機能するのか
→人生全体に影響するので、志向性を考える上で大事なことである
→発達は進化過程にによって説明できるが、模範を通じたアイディアの拡散には志向性が必要
人間行為の多様性:特定の特徴と信念をもった個人が、経済変化を引き起こす(社会的行動のパターンとなる=同じ信念をもつ人々が属する社会を作りあげるから、行動もパターン化する)

1、意識の拡張–文明の起源、対立の要因(p61)

一次意識と高次の意識
(心をもち物を精神的に気づける)と(自分が意識したり、つまらないとか美味しいとか、そいうことを自分が思っていると気づけること)
意識の理論:(1)物理的仮定(2)進化的仮定(3)クオリアの仮定
人間における高次の意識は行動の基礎であり、心の発達に結びついている→これが遺伝され→文化が継起していく(複雑だ)→歴史が生み出される→解釈できる→しかし、過去の出来事を解釈したことで、直接的に現実の成り行きに置換できない?
遺伝属性と文化属性を合わせて理解すると、そのときの人間を取り巻く条件を理解することが可能なのかもしれない

意識が延長していくストーリー

特徴
1、延長しすぎて、意識が具体化(迷信とか)してしまった(広い対象領域への延長)
2、延長すると、制度と人工物も発展する。これは意識がどの方向に向かっているのかを明白にして、その拡張を抑えることもある
高次の意識:現実にそれを具現化してしまう
パスカル:子供と大人の行為は道徳とは何なのかの表象で、見れば理解出来る。しかし、ある目的をもった超自然的主体の概念は道徳的推論を容易に取り込むことができるために、人々を虜にさせるような人々と関連性があるものにされる。→人々の知る道徳をうまく利用して生きながらえている。
→遺伝的起源が存在する
自己意識の高まりによって、人間は環境の構造を良くするために努力しなければ、という方向へ導かれる
エーデルマン:心的モデル(強調)の上で行われる「AはBだ」という文が思考に結びつけられると、今までのモデルαからモデルβへ移行するための能力が成長する。
遺伝的性向と多様に異なる経験との作用→社会変化の過程を理解するための出発点

意識の拡張がもたらすもの(p66)

文化(非公式な規範:思考的目的)的変異は遺伝子の属性じゃなくて、人間の志向性だ。
イデオロギー的同調:ときには良いが、時には悪い
制度や宗教は選択を一点範囲に限定させる形質もつ→p67まで10章の内容。

2、人為的環境の不確実性への対応

不確実性(定数)の変化:技術革新→それに対応する制度→それにより投資と拡張に誘因を与える→文化と合わさり多様な反応→フラストレーションを伴う制度→信念体系が人為的環境に対応するにつれて→それが経済発展の問題となった
経済的複利の格差拡大:知識と教義の対立、知識を応用するインセンティブの差→対立

信念と制度の複雑な混合
:知識の応用による達成は、神経系の直接的な帰結である。感覚とこの達成された状況と制度の結合が人間環境を取り巻く条件の源泉である。この源泉は、人為的環境への対処は心が反応するかである。
直面する新奇な問題は、経験的証拠を振り返ることでいくらか対処できる

3、異なる経験、異なる信念
生得的な協力行動は小規模集団を超えるのか?経済理論のモデルを変えるのか?→

経済学モデルに必要な2つの改訂(p72)
研究の要約:
1、モデルは支持されれない
2、集団間に大きな行動上の違いあり
3、市場統合の度合いと協力の利得の高低の集団レベルの違いが、社会間の行動の違いを説明できる
4、経済・人口の変数は説明しない
5、実験における行動と日常の経済パターンは整合的だ
結論
改訂:
1、経済人のモデルは実験結果と違う
2、経済的選択は、日常生活の経済的・社会的相互作用によって形作られる
→実験的行動と日常経済生活の構造の関連は標準的モデルの改訂に有用である

意識と志向性(p74)
格差を説明しようとするならば、信念体系の形成過程を探求すべし→信念体系の差異は、人為的環境の問題を扱う能力の差異を生み出す→その信念体系は複雑な文化(統合したい)へと進化するために多様な制度をつくる。その制度を観察すると、その社会の差異を説明出来る。この探求の過程では、先行研究で明らかになれた「人間行動」を、複雑な性質によってつくられた複雑な「信念体系」と統合しなければならない、





























プロ論「プロテスタンティズムの精神と資本主義の精神」

近代資本主義の萌芽は、オリエントや古典古代とは違って、徹底的に資本に敵対的な経済学説が公然と支配してきた地域に求めねばならない。

中国・インド・ギリシャ・ローマは自由であったが、歴史上、近代資本主義は生まれてこなかった。

経済的に厳しい規則があるところ{オランダ、ニューイングランドスコットランドイングランド
→これらの国々で近代資本主義が成立した。
→つまり、

Q)これらの国々の経済倫理が発展に貢献したのではないか?

→それは「禁欲的な倫理」→内面から推し進める「資本主義の精神」

DEF:資本主義の精神

産業経営的資本主義{合理的な経営、利潤追求、大量現象}

修道院内での世俗外的禁欲が、世俗内へと波及する。

Q)いかにして、修道院内から外へと広まったのか?
A)多様な徳性を1つの統一した行動システムにまで、まとめあげているような「エートス」が、社会全体で醸成される。

DEF:エートス{倫理的雰囲気、思想的雰囲気}=資本主義の精神↔伝統主義の精神{過去基準}

Q)いかにして伝統主義の精神→資本主義の精神へと移行したのか
A)宗教教育により倫理の転換点を迎えた

Q)世俗外から内へどうやって広まったか?
A)教会、信団(自由意志に基づいて)が、互いに絡み合う→中間組織を形成し、天職義務=禁欲ー教育ーが広まる

近代資本主義の成立過程

  1. 都市から農村へと労働者が移動する
  2. 生産し、利益を獲得する
  3. 目的は禁欲的に仕事をすることなので、お金儲けではない
  4. したがって、お金は余るわけである
  5. しかし、仕事は継続する
  6. また、お金が余る
  7. 隣人愛のために、お金を寄付する
  8. 合理的産業経営へとつながる資本へ変化する
  9. やがて、資本主義の社会機構が成立する
  10. 彼ら=労働者は、やがて、その社会機構の中に強制的に組み込まれ、労働をして生活することをよぎなくされる。

ビジネスリーダーの役割(企業家たちの挑戦,2013、中公文庫)

東西革新的企業者
A・ガーシェンクロン:「相対的後進性の有利」
→これによって、遅れて近代化した国は発展するスピードが早いと示す
→でも、本当?
▶可能であるが諸問題を克服する必要があり
(1)対応・転換する能力が国にあるのか?
(2)そもそも、先進国に追いつこうとする意識が人々にあるのか?
(3)それらを指導する知識人(ビジネスリーダー)が存在しているか?(人々に啓蒙する能力)
ー(3)によりアニマル・スピリットをもつ多くの革新的企業家を生み出す
▶ ◯渋沢栄一(東) ◯五代友厚(西)

幕末の動乱期に成長した渋沢栄一
渋沢栄一:(1)尊皇攘夷思想の中で、(2)西洋の文明に触れたことにより、それが揺らぐ。
その過程:恵まれた家庭環境に生まれる→長い教育・従兄弟の尾高が通じていた水戸学に影響を受ける→(1)尊王攘夷思想へ傾倒
→教育期間後、商才を磨く→尊王攘夷運動へ加わる→外国人居留地襲撃計画を立てる(だけ)→官憲の追求を避ける→京都へ→一橋慶喜の下で抜擢され→1866年に幕臣へ→煩悶→(2)1867年に西欧の開化文明に触れる
【Q】果たして(2)によりどう感じたのか?
【A】「驚き、役に立ち、心変わり、独立など思いもよらない事、高論(他人の意見を敬う意味での意見)は何?」
と感じた
▶1867年の遣欧特使随行を契機に書かれた「尾高への手紙」により、渋沢の尊皇攘夷思想が揺らいだことがわかる。

大蔵省出仕
1867年:幕府の瓦解により、日本に戻る
→1868年に大蔵省の租税正(そぜいのかみ)となる
井上馨との出会いと交流により、渋沢の進む道を大きく方向づける
渋沢と井上:『会社弁』と『立会略則』
→経済制度の導入を目的にした。
→しかし、1873年の財政整理により目的不達成→野に下る(「官」から「民」へ下ること)
▶経済人渋沢の活動が始まる。本領発揮

渋沢栄一:諸階層が重なりあう境界的(マージナル)な位置に身を置いていた。
変革期のマージナルマンはなぜ活躍するのか?→「階層の価値体系から自由であった=身軽であった」
でも、そもそも、マージナルマンは出現できたのか?→「マージナルマンを許容するような社会的基盤が存在していたから」
官を辞した渋沢:最初のビジネスへの関与は「第一国立銀行」であった。
→その後、同行を母体として500社にも及ぶ会社設立などに関与する

オーガナイザーとしての渋沢
そもそも、会社の設立には資本が必要で、渋沢のようなプロモーターの場合はそれが巨額である。
(Q)では、どうやって資産を増加させたのか?
(A)島田昌和:インカムゲインキャピタルゲインによって増加させ投資を重ねていった。
→しかし、渋沢家のみでは限界がある。どうしたら良いであろうか?
▶合本主義(=小資本を集めて大資本にする)でこれを解決
会社設立以外の渋沢の役割:ビジネス団体、財界団体間の調整、経済界・企業を代表して広範囲(政治・外交・教育・文化など)に対して発言、政府と財界との媒介
▶財界人の第1号
なぜ、渋沢はオーガナイザーとして活躍できたのだろうか?
→合本資本主義であったからである。

株式会社制度へ
後進国日本にとって、なぜ株式会社制度が適合的な資本調達であったのか?
→理由:個別資本の成長の遅れ
では、株式会社制度が導入されれば個別資本ではなく、人々がスムーズに株式投資を行ったのか?
→諸問題があったが、それぞれ解決していく。
諸本題と解決:
(1)株式会社制度の理解が人々にとって理解させる必要があったこと▶啓蒙書の出版
(2)投資をするにあたっての情報伝達が難しかった▶有力発起人が奉加帳に筆頭人として記名して小投資家達に安心感を与える
→こうした事情から明治期の資本家たちはグループを形成していることが多かった
→各地方の資本量を超える株式会社の設立には多数グループの出資が必要
→渋沢はこれらの間をまとめて調整する出番があった
(3)取締役は業績や利益処分について関心をもつ存在(理由は、複数の企業に投資をしている兼任重役であり、専門知識はないから)→オーガナイザーが業務を行う支配人や技師長などの管理職社員を支持し守る

渋沢の実業精神
渋沢は政府とのコネクションがあったからオーガナイザーになれたのか?
→コネクションがある実業家は数多くいた。
つまり、渋沢には彼らにはなかった何か(素質)があるはずである。
→それは「道徳経済合一説」:事業が正業であるならば、公益と私益は一致する。
渡欧したときの課題:
(1)ビジネスマンと軍人・政府人は対等の関係であることが望ましく、
(2)資本形成と実用優先は立国の基盤である。
(3)ビジネスマンの社会的威信を高めることで、人材が実業界へはいるモチベーションを形成させること。(賤商意思の克服!)

意識変革のために
1873年に渋沢は官を辞する:「商人地位の向上と商人は徳義の標本にならなければならない」との言葉を残す
1899年のスピーチ:「私利」の追求が義に背かぬ。
→新時代の実業は伝統社会の「士農商」の実業とは違うものである。
▶エリート層が実業界へ身をとおじる

渋沢思想の陥穽(かんせい)
論語の解釈による問題:(1)私的営利行為は公的行為だと主張できる論理を導いた(2)公的行為に結びつかない私的行為は道理に反する
→私的行為の社会的正当性を支える経済倫理の生成を摘み取る
▶渋沢の一つの目的「ビジネスマンの社会的威信の向上」が成功したが、戦時下のナショナリズムの下では国家の下僕となる

薩摩の五代友厚
1835年:格式も禄高も高い五代家で誕生→1857年:長崎海軍伝習所で学ぶ→1859年:再び長崎で遊学=開国思想の開眼(トーマス・グラバーと親交)→1862年:上海へ→1863年:薩英戦争が原因で武蔵国熊谷で亡命生活

イギリス渡航
1864年:薩摩へ戻る。尊王攘夷派を批判し、国を開き交易し、富国強兵をする。
→先進文明を摂取、富国強兵
早期の実現:1865年に薩摩藩イギリスへの留学派遣。

貿易業に開眼
1865年5月よりイギリスに接近:(1)紡績業に着眼→1867年「鹿児島紡績所」(2)コント・ド・モンブランと貿易商社契約を交わし、総合商社を設立する構想をいだいた(3)グラバー支援の下で、マセソン商会宛の手形を発行し、薩摩藩は長崎で決済(4)薩摩藩主に富国強兵第18箇条をおくる

1866年に帰国:交易で諸藩へ武器供給(藩際交易機構)を具体化→多数の志士と関わり、開明的知識が高く評価される
小菅修船場:ドックの建設 by出資多数→1869年:政府に買われ→1889年:三菱へ払い下げ(長崎造船所)
ナショナリストの五代:通信/交通設備は国家が行うべきとした。
造幣寮:
目的:均質の貨幣の製造
機械:香港から輸入
機能:硫酸・ソーダなどを民間へ供給
経営:複式簿記
教育面:物理・化学・英語
研究面:舎秘局
→文明開化の窓口→通商会社&為替会社:有力両替商は消極的だったが、五代により町人を説得→共同企業発展史に大きな意義あり
1869年:横浜へ左遷されるが、再度大阪へ

五代の事業展開
金銀分析所:利益は大きい
鉱山経営:鉱山経営を総合的にチェック・ユニークな簿記法の導入→利益大
製藍業:国産藍での製造を研究
1870年:活版所→薩摩辞書につながる
1881年:阪堺鉄道、神戸桟橋:神戸港の発展に貢献、1884年:過当競争を解決し、大同団結をつくる→大阪商船株式会社

財界を指導
1876年堂島米取引所:価格の安定のため
五代の米価売り崩しがあった→諸説あるが、都市と細民の保護
1878年大阪株式取引所が設立

大阪商法会議所
株仲間の停止→諸規則が不安定に→1878年:(1)大阪商法会議所(下からの盛り上がり強い)、(2)東京商法会議所(政府らにより)
(1)→大阪の商業・金融・運輸の活性化に大きな力を注ぐ→五代はリアリストであった
教育:大阪商業講習所

五代と大久保
五代:武勲派から蔑視される傾向にあり。だが、多数の知人が存在する。
→特に五代と大久保が知り合ったことが大きく意味を持つ

官有物払い下げ事件
大阪会議:五代は木戸と板垣の政府復帰を成功させる
五代の政商的イメージ:(1)殖産興業資金:借受任中最低に返済率、(2)北海道貿易を通じて払い下げを受けた→反発を受け→政商の烙印へ

「政」のための「商」
五代と渋沢:築き上げた多彩な人間関係ネットワークは武器となった。マージナリティと広域志向性→渋沢と共通
→「政」のための「商」の面では違う?

渋沢と五代:
渋沢:移植産業(西洋流)、長寿、私的利益を重視
五代:在来産業(旧経済秩序の上に経済の近代化)、惜しくも短命、国益性を重視
の点では異なるが、共通する点も多い。→社会経済の大変動の中で、大多数の人々を鼓舞した。

企業者職能の時代
明治期日本に求められていた企業者の職能:(1)情報通(2)まとめる力(3)ヒューマンネクサス(4)ビジネスマンからの幅広い信用(5)利害調整能力
この背景には後進性がゆえの制度と技術の借用があった

アニマル・スピリット
彼らの役割とは:情報収集と組織づくりであり、会社設立などに関係しては、去る。そして、新しい分野に進む。
→財閥コンツェルンとは違う。
特有の理念:明治期日本と先進国とのギャップを埋めるためには、支配的価値観からの断絶
→その理念とは、国益志向とアニマル・スピリット→共同体中心的企業↔西洋「自己中心的企業」
彼らは私的資本家としては「非合理性」であったが、変革期日本全体からみれば、彼らは「合理性」を擁していた。








ソニー(日本企業の経営行動,2001、有斐閣)

事業戦略家としての技術者

1945:「東京研究所」→1958:「ソニー
→1つの高い技術(成功要因)で世に製品を送り出す
Q、どうしてソニーはそれを成し得たのか?
↪︎事業戦略家としての井深大の思考経路を辿って探求していくことで明らかにする

井深大と技術者たち
1、井深大の人間像
井深の本質:「発想の人」、「考え方が技術屋」
これからに具体的な言葉を与える
経歴:大学卒業後、就職するも転職し、日本測定器株式会社(1940)
2、技術者たちの群像
旧海軍技術者&早稲田系技術者&ひきぬかれた技術者らによって
➡︎ソニーが成功できた

②技術情報に基づく市場認識–テープレコーダー開発
1、ラジオ用コンバーター真空管電圧計の製造
終戦直後の主要製品:短波ラジオコンバーター真空管電圧計
ラジオ需要の理由:(1)ラジオ放送の自由(2)ラジオ受信機の消耗大
↪︎ラジオ受信機ではなく、コンバーターの開発へ
↪︎理由:松下電気などが量産しては敵わないから
真空管電圧計:戦前に蓄積した知識と技術と真空管の需要を結びつけた(察知した)
➡市場認識の結果、成功した
2、録音機への着目
ラジオ受信機の次は録音機
録音機:(1)ワイヤーレコーダー(2)テープレコーダーという2つの選択肢があったが、GHQヘイムズの保有する(2)を試聴したことで、テープ式レコーダーが次々と開発される
3、巧妙な特許利用
テープレコーダーの独占➡︎「永井特許(1940)」の戦略的使用
↪︎戦前、トーキー方式の特許に触れないために、特許の知識習得と特許回避が蓄積があり、永井特許を延長させ、独占的な市場を創出できた

③戦略的発想–トランジスタラジオの事業戦略
1、トランジスタラジオの開発
初期:トランジスタの開発には消極的→しかし、1952アメリカ滞在中にWE社がトランジスタ特許を公開するという情報を聞く
↪︎「将来ものになる」(真空管の後継部品になる)という見解をみせる→その後,WE社との技術援助契約をし、ポータブルラジオ受信機(トランジスタラジオ)の開発に注力する。
➡︎しかし、高価格と受信範囲の問題により売れなかった
2、競争を通じての市場拡大
ここで井堀たちがとった行動は、独占をやめて多数の企業を参入させることで競争を実現させることであった。
↪︎永井特許は1955に切れ、その後の他者の市場参入は驚異であるなどが理由
➡︎この非合理的に見える行動が、大きなパイを創造し、シェアを拡大させることで、売り上げを向上させる結果となった。

コア・コンピタンスの形成–テレビ受像機の世界的成功
1、テレビ受信機市場への進出
1950後半:戦前からのテレビ受像機に関する技術の蓄積→売上高利益率は10%
↪︎しかし、テレビ市場では高性能・低価格・大量生産を達成できない場合は、市場からの退出を余儀なくされた
→寡占化が進む。ソニーは市場参入の選択をするが、開発先行型のソニーは寡占競争となると、なかなか他社を出し抜くのは難しい
↪︎松下・早川の優位↪→その後、高い技術をもって高周波をカバーできるトランジスタの製作することにするが、ゲルマニウムトランジスタにおいては高電圧をカバーできないことで不成功に至った。
➡︎がしかし、シリコントランジスタの開発研究によりテレビ受像機に成功した(1960)
2、ソニーの中核能力
その後のソニーの方向性:(1)ポータブル化(2)高級化(3)輸出志向
1、ポータブル/ポケッタビリティ
ソニーの特徴とは小型技術と論じられている(Hamel,1994)
➡︎これは技術力あってこそであるが、あくまで井深の事業戦略の結果である
2、ハイエンド志向と輸出
しかし、1950年代末〜60年初頭においての日本テレビ市場の普及率は60%
→これの意味するところは一家に1台のテレビ需要が満たされていない市場状況で、2台目でようやく需要が出てくる持ち運び可能なポータブルテレビ(TV5–3030)は日本市場で売れるには時期尚早であった。
↪︎そこで、ソニーはテレビ普及率が80%であるアメリカ市場に目をつけて、1962年から人気商品として爆発的に販売していった。

川崎製鉄(日本企業の経営行動,2001、有斐閣)

はじめに

敗戦の影響:物理的・精神的に国民は混乱、とくに重工業部門では生産を自主的には決めれない
▶問い:ここからどうやって、大規模な設備投資、生産力、国際競争力の原型を気づいていったのか?

1,日本の鉄鋼業発展の特徴

1 革新的だった日本の鉄鋼業
なんで、鉄鋼業を取り上げる?
→鉄鋼業の驚異的発展抜きで戦後発展を考えることができないから
日本の鉄鋼業の発展:技術・知識・経営のパラダイムチェンジによって大きく発展しうる=驚異的
→曲がりくねった道のり
鉄鋼業の敗戦直後の状況:石炭・鉄鉱石・電気なし→だから、やめよう
これに対して浅田長平:鉄はやる必要はあると反論
→では、誰がその後の鉄鋼業を担ったのか?

2 高い投資と生産性
(P178、図1)
熱間圧延薄板と冷延薄板の製造ともにアメリカを抜くほどの生産性の向上を果たす
どうやった?強気の投資があったから(成長があるから投資ではない)
(180P、表1)
生産能力の伸び率、新設比率、上位10工場の規模
→驚くほど高い
→技術革新により効率よく資本を使い、生産性を高めることができたから

3,積極的な技術革新
では、技術革新とは?
→(1)製鋼工程のBOF(純酸素上吹き転炉、LD転炉)と(2)造塊工程の連続鋳造設備のイノベーションの採用
(1)輸入くず鉄は大きく価格が変動するために、くず鉄の依存度が低いBOFは魅力的
▶これは銑鋼一貫化を前提とした生産方式
(2)生産性において優れた利点があり、しかし建設費が高い
住友金属八幡製鉄を筆頭に急速に普及
▶戦後日本の鉄鋼企業が巨額の資本を大規模な新規銑鋼一環工場と画期的イノベーションとにきわめて意図的に投下してきたという事実である。

技術のインバランス:ある優れたイノベーションがある生産工程の一部に導入されると、その前後工程に生産能力や生産時間のインバランスが生じ、そのインバランスを解消するためにさらなる技術革新が次々に導入されていくという考え方である。
BOF:高炉の大型化と連鋳(コンピュータの導入)
これらのイノベーションは銑鋼一環システムの導入と密接に関連した企業行動だったと推測
では、大型の新鋭一環工場建設がなぜ相次いだのか?

2,西山弥太郎の革新性

1,何が、そして誰が日本鉄鋼業を変えたのか
重要な出来事
(1)1947年過度経済力集中排除法による日本製鉄の分割
(2)川崎製鉄の独立と銑鋼一貫化
川崎重工は、集排法が緩和されたにもかかわらず
→製鉄部門をリードしたのが西山弥太郎
→千葉における銑鋼一貫工場の導入(経済不況や先行き不安の原料事情がありながらも)

2,川鉄・西山弥太郎の3つの革新性
日鉄・富士・八幡、川崎・住友・神戸
第1の革新性:川鉄の銑鋼一貫工場→一貫メーカー6社による寡占的な競争形態をまねく
川崎→脅威→富士・八幡
住友・神戸:鋼管、線材、機械にも専門にしていた
川鉄の一貫化→住友金属神戸製鋼ともに千葉に臨海型の新鋭製鉄建設を図る
→一貫六社の寡占的競争関係へ(図3)
第2の革新性:千葉工場がこれまでにない工場であったこと
→合理的なレイアウト・臨海地区・東京近隣
→旧工場の改善よりも新鋭工場建設という戦後の投資パターンを形作る
特徴:(1)戦後民間企業初の技術使節団を派遣(2)世界の製鉄所のレイアウトのプロトタイプなったともいわれている
第3の革新性:他人資本の活用による設備投資の推進
→(1)銀行からの役員派遣(2)世銀からの融資
▶高度経済成長を予想させるような革新性は「投資が投資を呼ぶ」という戦後発展の先駆となった。
わからないところ

おわりに−連続性と非連続性−
西山:日本鉄鋼協会の最高賞服部章の受賞者、川崎重工部門の最高責任者
→充分な技術蓄積があった。
戦後の非連続的大変化:経済パージにより川崎重工の経営陣が入れ替えられ、最年少の重役として、最高経営者の一人になった西山がこの非連続的な環境に対応し、代替な意思決定を行った


企業家たちの挑戦「住友家と広瀬宰平」

住友家と広瀬宰平(宮本2013,企業家たちの挑戦)

住友家と別子銅山

1、背景:住友家は「南蛮吹き」という秘法を伝授され、銅吹屋と銅貿易所を営んだ。その後、大阪は銅精錬業の中心地となった。住友は、複数の銅屋株と銅貿易株を所有し、特別の地位を占めた。1,691年、住友は別子銅山を開発した。
2、別子銅山の経営:出銅高に比例して、運上を納める方法が適用された。
          永代請負稼行権を獲得した。
3、遠町深舗:遠町とは、鉱山を掘り進むにつれ必要資材の調達が難しくなるということである。
       深舗とは、坑道が深くなるにつれ運搬、通気、排水が難しくなるということである。
  幕府が住友の銅を低い御用銅価格で買った。一方、住友に幕府から安い価格で米が供給されていた。
4、経営危機:住友は大阪に両替店を開業し、文政期の貨幣改鋳で金銀引換所となった。幕府から御用金上納を命じられ、財政逼迫が生じた。
     
広瀬宰平の抜擢

1、第一の危機:米の価格を上げることによって、鉱夫達の暴動が起こった。(鉱夫達の説得活動、暴動首謀者の寛大処分など)
2、第二の危機:戊辰戦争による別子銅山を差し押さえ、米櫃に封印をしてしまた。住友の銅蔵も抑えられてしまった。(別子の開発と運営は住友が独自で行って、銅山稼行の継続を嘆願した
3、住友の別子稼行権の確立:永代稼行権の確保ー「鉱山心得書」の布告と「日本坑法」の発布(鉱業専有主義と本国人主義)

広瀬の改革

1、銅山経営の合理化:「諸事更新」の方針を打ち出し、作業員への現物支給の廃止。作業時間の励行、能率による鉱夫の等級分け、減俸、適材適所、山民の教化指導、着衣の洋服への変更、制銅販売店の開設など
           「別子銅山改革法」:給与制度、身分制度、就業制度、服務規程など
2、西洋技術の導入:火薬の使用、フランス人鉱山技師の雇用

ラロック案の実施

1、企画の遠大性、内容の緻密性、実施の現実性という3つの側面から別子の近代化をプランし、在来技術と洋式技術をミックスし、漸進的な改革を行った。
2、外国人技師の雇用から日本人の自立への移転:外国人技師雇用費が高い、本国人主義

多角化経営

1、神戸に銅販売店の設置し、樟脳や製茶の委託販売を行った。
2、大阪における倉庫業、金融業、貸付業(並合業)へ進出した。
3、大阪ー伊予間の製銅・物資の輸送、海運業への進出
4、製造業部門では、製系業、製茶業、樟脳製造業への進出(投資規模が小さく、経営も不安定から撤退することになった)
5、別子銅山では、製錬所を建設し、硫酸製造と製鉄業に乗りでした。
*発展性のある銀行業への進出には消極的である。(一貫性の欠如)

広瀬の貢献

1、多様な人材の登用
2、「住友家法」の制定:別子の重要性、住友の事業精神、不適格者の廃棄(特徴:家制度の欠如、人事制度、雇員の待遇、会計制度の完璧)
3、職制について重任局の設置、合議制の確立

内部から広瀬への批判

1、新家法の改正:「家憲」(家)と「家法」(営業)の部分的に独立したこと
2、リーダーシップへの批判(独裁制)と事業戦略上の批判、煙害への批判

変動時代における企業者

共通点1:同じ問題に直面する:営業基盤であった幕府御用商売がなくなることに対していかに対処するか;新政府側にいかに早く方向を転換するか;経済環境の変化により家業の再構築をいかに進めるか;どのように家政改革を進めるか
共通点2:主家の財政状況が危機的招待にあった時、経営の担当を任命され、従来のルーチンから逸脱する認識と権力が必要になる。


鴻池と土居通夫

鴻池家の不振
1、原因:強烈な個性を持った改革者の欠如
2、背景:鴻池は清酒醸造して、両替店を営んで、豪商となった。その後、経営悪化という状況を打開して、有利な資金運用先を見出さなかった。
3、危機:政変に対して、中立的な動きをとった。新政府への協力が不足である。

進まぬ家政改革
1、第三十国立銀行を興したけど、貸付に熱心ではなく、自己資本を中心に公債買い付けを資金運用の中心に据えるという消極的経営方針をとった。
2、鴻池では、本家のほか、有力な分・別家が存在し、本家への資本集中度が比較的に低かった。分・別家制度の廃止の失敗

土居通夫の登場
1、分・別家の整理:涙金で出入りを差し止められた。
2、「鴻池家憲法」の制定:家主の権限を規定で制約する。「家政会」の設立(保守性がある)

鴻池銀行の安定
鴻池銀行は経営の安定性を重視したが、将来性のある取引先の開拓には消極的となった。

土居の財界活動
1、土居は大阪財界で大きな影響力を持った。
2、大阪商業会議所会頭の地位にあった。
3、第五回内国勧業博覧会の誘致と開催に力を尽くした。
*土居のざいかいじん活動がある程度、鴻池の名声と財力を後ろ盾とする。