ビジネスリーダーの役割(企業家たちの挑戦,2013、中公文庫)

東西革新的企業者
A・ガーシェンクロン:「相対的後進性の有利」
→これによって、遅れて近代化した国は発展するスピードが早いと示す
→でも、本当?
▶可能であるが諸問題を克服する必要があり
(1)対応・転換する能力が国にあるのか?
(2)そもそも、先進国に追いつこうとする意識が人々にあるのか?
(3)それらを指導する知識人(ビジネスリーダー)が存在しているか?(人々に啓蒙する能力)
ー(3)によりアニマル・スピリットをもつ多くの革新的企業家を生み出す
▶ ◯渋沢栄一(東) ◯五代友厚(西)

幕末の動乱期に成長した渋沢栄一
渋沢栄一:(1)尊皇攘夷思想の中で、(2)西洋の文明に触れたことにより、それが揺らぐ。
その過程:恵まれた家庭環境に生まれる→長い教育・従兄弟の尾高が通じていた水戸学に影響を受ける→(1)尊王攘夷思想へ傾倒
→教育期間後、商才を磨く→尊王攘夷運動へ加わる→外国人居留地襲撃計画を立てる(だけ)→官憲の追求を避ける→京都へ→一橋慶喜の下で抜擢され→1866年に幕臣へ→煩悶→(2)1867年に西欧の開化文明に触れる
【Q】果たして(2)によりどう感じたのか?
【A】「驚き、役に立ち、心変わり、独立など思いもよらない事、高論(他人の意見を敬う意味での意見)は何?」
と感じた
▶1867年の遣欧特使随行を契機に書かれた「尾高への手紙」により、渋沢の尊皇攘夷思想が揺らいだことがわかる。

大蔵省出仕
1867年:幕府の瓦解により、日本に戻る
→1868年に大蔵省の租税正(そぜいのかみ)となる
井上馨との出会いと交流により、渋沢の進む道を大きく方向づける
渋沢と井上:『会社弁』と『立会略則』
→経済制度の導入を目的にした。
→しかし、1873年の財政整理により目的不達成→野に下る(「官」から「民」へ下ること)
▶経済人渋沢の活動が始まる。本領発揮

渋沢栄一:諸階層が重なりあう境界的(マージナル)な位置に身を置いていた。
変革期のマージナルマンはなぜ活躍するのか?→「階層の価値体系から自由であった=身軽であった」
でも、そもそも、マージナルマンは出現できたのか?→「マージナルマンを許容するような社会的基盤が存在していたから」
官を辞した渋沢:最初のビジネスへの関与は「第一国立銀行」であった。
→その後、同行を母体として500社にも及ぶ会社設立などに関与する

オーガナイザーとしての渋沢
そもそも、会社の設立には資本が必要で、渋沢のようなプロモーターの場合はそれが巨額である。
(Q)では、どうやって資産を増加させたのか?
(A)島田昌和:インカムゲインキャピタルゲインによって増加させ投資を重ねていった。
→しかし、渋沢家のみでは限界がある。どうしたら良いであろうか?
▶合本主義(=小資本を集めて大資本にする)でこれを解決
会社設立以外の渋沢の役割:ビジネス団体、財界団体間の調整、経済界・企業を代表して広範囲(政治・外交・教育・文化など)に対して発言、政府と財界との媒介
▶財界人の第1号
なぜ、渋沢はオーガナイザーとして活躍できたのだろうか?
→合本資本主義であったからである。

株式会社制度へ
後進国日本にとって、なぜ株式会社制度が適合的な資本調達であったのか?
→理由:個別資本の成長の遅れ
では、株式会社制度が導入されれば個別資本ではなく、人々がスムーズに株式投資を行ったのか?
→諸問題があったが、それぞれ解決していく。
諸本題と解決:
(1)株式会社制度の理解が人々にとって理解させる必要があったこと▶啓蒙書の出版
(2)投資をするにあたっての情報伝達が難しかった▶有力発起人が奉加帳に筆頭人として記名して小投資家達に安心感を与える
→こうした事情から明治期の資本家たちはグループを形成していることが多かった
→各地方の資本量を超える株式会社の設立には多数グループの出資が必要
→渋沢はこれらの間をまとめて調整する出番があった
(3)取締役は業績や利益処分について関心をもつ存在(理由は、複数の企業に投資をしている兼任重役であり、専門知識はないから)→オーガナイザーが業務を行う支配人や技師長などの管理職社員を支持し守る

渋沢の実業精神
渋沢は政府とのコネクションがあったからオーガナイザーになれたのか?
→コネクションがある実業家は数多くいた。
つまり、渋沢には彼らにはなかった何か(素質)があるはずである。
→それは「道徳経済合一説」:事業が正業であるならば、公益と私益は一致する。
渡欧したときの課題:
(1)ビジネスマンと軍人・政府人は対等の関係であることが望ましく、
(2)資本形成と実用優先は立国の基盤である。
(3)ビジネスマンの社会的威信を高めることで、人材が実業界へはいるモチベーションを形成させること。(賤商意思の克服!)

意識変革のために
1873年に渋沢は官を辞する:「商人地位の向上と商人は徳義の標本にならなければならない」との言葉を残す
1899年のスピーチ:「私利」の追求が義に背かぬ。
→新時代の実業は伝統社会の「士農商」の実業とは違うものである。
▶エリート層が実業界へ身をとおじる

渋沢思想の陥穽(かんせい)
論語の解釈による問題:(1)私的営利行為は公的行為だと主張できる論理を導いた(2)公的行為に結びつかない私的行為は道理に反する
→私的行為の社会的正当性を支える経済倫理の生成を摘み取る
▶渋沢の一つの目的「ビジネスマンの社会的威信の向上」が成功したが、戦時下のナショナリズムの下では国家の下僕となる

薩摩の五代友厚
1835年:格式も禄高も高い五代家で誕生→1857年:長崎海軍伝習所で学ぶ→1859年:再び長崎で遊学=開国思想の開眼(トーマス・グラバーと親交)→1862年:上海へ→1863年:薩英戦争が原因で武蔵国熊谷で亡命生活

イギリス渡航
1864年:薩摩へ戻る。尊王攘夷派を批判し、国を開き交易し、富国強兵をする。
→先進文明を摂取、富国強兵
早期の実現:1865年に薩摩藩イギリスへの留学派遣。

貿易業に開眼
1865年5月よりイギリスに接近:(1)紡績業に着眼→1867年「鹿児島紡績所」(2)コント・ド・モンブランと貿易商社契約を交わし、総合商社を設立する構想をいだいた(3)グラバー支援の下で、マセソン商会宛の手形を発行し、薩摩藩は長崎で決済(4)薩摩藩主に富国強兵第18箇条をおくる

1866年に帰国:交易で諸藩へ武器供給(藩際交易機構)を具体化→多数の志士と関わり、開明的知識が高く評価される
小菅修船場:ドックの建設 by出資多数→1869年:政府に買われ→1889年:三菱へ払い下げ(長崎造船所)
ナショナリストの五代:通信/交通設備は国家が行うべきとした。
造幣寮:
目的:均質の貨幣の製造
機械:香港から輸入
機能:硫酸・ソーダなどを民間へ供給
経営:複式簿記
教育面:物理・化学・英語
研究面:舎秘局
→文明開化の窓口→通商会社&為替会社:有力両替商は消極的だったが、五代により町人を説得→共同企業発展史に大きな意義あり
1869年:横浜へ左遷されるが、再度大阪へ

五代の事業展開
金銀分析所:利益は大きい
鉱山経営:鉱山経営を総合的にチェック・ユニークな簿記法の導入→利益大
製藍業:国産藍での製造を研究
1870年:活版所→薩摩辞書につながる
1881年:阪堺鉄道、神戸桟橋:神戸港の発展に貢献、1884年:過当競争を解決し、大同団結をつくる→大阪商船株式会社

財界を指導
1876年堂島米取引所:価格の安定のため
五代の米価売り崩しがあった→諸説あるが、都市と細民の保護
1878年大阪株式取引所が設立

大阪商法会議所
株仲間の停止→諸規則が不安定に→1878年:(1)大阪商法会議所(下からの盛り上がり強い)、(2)東京商法会議所(政府らにより)
(1)→大阪の商業・金融・運輸の活性化に大きな力を注ぐ→五代はリアリストであった
教育:大阪商業講習所

五代と大久保
五代:武勲派から蔑視される傾向にあり。だが、多数の知人が存在する。
→特に五代と大久保が知り合ったことが大きく意味を持つ

官有物払い下げ事件
大阪会議:五代は木戸と板垣の政府復帰を成功させる
五代の政商的イメージ:(1)殖産興業資金:借受任中最低に返済率、(2)北海道貿易を通じて払い下げを受けた→反発を受け→政商の烙印へ

「政」のための「商」
五代と渋沢:築き上げた多彩な人間関係ネットワークは武器となった。マージナリティと広域志向性→渋沢と共通
→「政」のための「商」の面では違う?

渋沢と五代:
渋沢:移植産業(西洋流)、長寿、私的利益を重視
五代:在来産業(旧経済秩序の上に経済の近代化)、惜しくも短命、国益性を重視
の点では異なるが、共通する点も多い。→社会経済の大変動の中で、大多数の人々を鼓舞した。

企業者職能の時代
明治期日本に求められていた企業者の職能:(1)情報通(2)まとめる力(3)ヒューマンネクサス(4)ビジネスマンからの幅広い信用(5)利害調整能力
この背景には後進性がゆえの制度と技術の借用があった

アニマル・スピリット
彼らの役割とは:情報収集と組織づくりであり、会社設立などに関係しては、去る。そして、新しい分野に進む。
→財閥コンツェルンとは違う。
特有の理念:明治期日本と先進国とのギャップを埋めるためには、支配的価値観からの断絶
→その理念とは、国益志向とアニマル・スピリット→共同体中心的企業↔西洋「自己中心的企業」
彼らは私的資本家としては「非合理性」であったが、変革期日本全体からみれば、彼らは「合理性」を擁していた。